せせらぎの向こう側

川辺でそっと目を閉じてみる。さらさらと流れる水の音に耳を傾け、澄んだ空気を胸いっぱいに取り込む。瞼の裏には、木漏れ日に包まれた景色がそっと浮かび上がる。

「せせらぎ」。耳にするだけで、スーッと心に溶け込み、あの懐かしい空気を思い出させてくれる。そんな不思議な言葉です。

光差すあの場所で

ここは、大地を育む水が、静かに流れる川沿い。一歩、浅瀬へ足を踏み入れると、水が奏でる美しいメロディーが、心地よく鼓膜を刺激します。青々と茂る木々を見上げ、頬を撫でる風を感じる。草木や土の香りがふわりと漂い、清々しい空気を心ゆくまで味わう。 そんな「せせらぎ」を体中で感じる。まるで自分自身も、自然と一体であるかのように。

「せせらぎ」は元々、水が流れる音から生まれた言葉でした。「さらさら」、「ちょろちょろ」など日本語には、水の流れを表す言葉はたくさんあります。それぞれが流れる水の音として、私たちの耳に届きます。けれども、それらとはどこか違った雰囲気を見せる「せせらぎ」。この言葉は水の音だけではなく、木漏れ日や風のしらべ、自然の香りまでも、私たちのもとへ運んできてくれます。 カメラも、写真もなかったあの時代。映像を記録するすべなどありません。それでもこの言葉は、私たちの心に、ありありとその情景を描き出す。なんだか、時を超えて「せせらぎ」という名の古いポストカードを、そっと手渡されたような―どこか懐かしく、胸がそっとほどけていくような心地よさを感じます。

森の囁き

ところ変わってここは、オリーブの香りがそよぎ、柔らかな光が照らす秘密の森の中。瞼でゆっくり視界を遮ると、乾いた風がカサカサと木の葉を揺らし、遠くで小川の流れる気配を感じる。人の世界とはどこか、かけ離れた雰囲気すら感じる神秘的な場所。自然が奏でるメロディーは、まるで妖精たちが私たちに囁きかけているかのように、耳をかすめていく。人々はこの美しい音色を「SUSURUS(ススルス)」と呼びました。

美しい響きを多く持つとされるラテン語。その中でも特に、耳心地のいい言葉として知られる「SUSURUS(ススルス)」。精霊たちの囁きという意味で、カサカサという葉っぱの擦れあう音、そして、さらさらと流れる水の静かで優しい音を表します。 ただ自然が発する音として認識するのではなく、その中に見えない存在を感じていたラテン人。だからこそ、彼らの気配をそっと忍ばせるように、この言葉を紡いだのでしょうか。 見えないけれど、信じたくなる。幼いころに絵本を読んで、妖精の国を旅したように、また胸の高まりが静かに広がっていくように感じます。

時を超えた音色

何千キロもの距離があり、違う時代を生きてきた、私たちの祖先とラテン人。しかし、川のほとりで静かな音を聞き、言葉にのせた感性はどこか通ずるものがあったのかもしれませんね。何千年の時を超えて、今の日常でも耳にする美しい音色たち。 その響きに心地よさを感じるのは、時は変われども、彼らと同じ感性で生きているからではないでしょうか。

ラテン語と日本語では、感覚は似ているけれども、切り取るフィルターが少し異なるように感じます。 ラテン語は、耳を澄ませた音楽家のよう。音にフォーカスをあてて、言葉というフィルムで包みこみました。 一方で日本語は、まるで一枚の絵画を見ているかのように、映像を切り取り、言葉で表現しました。

音の響きを愛し、そこに物語を乗せた西洋と、音を含めたすべての雰囲気を愛し、言葉で描き出した日本。切り取り方は異なるけれど、どちらも小さな音に耳を澄ませ、物語を秘めた、名前を付けたという点では同じではないでしょうか。 そして、その言葉が過去と未来をつなぐ架け橋となり、今も私たちの心に語りかける。人の心が美しいと感じるものは、変わらず、ずっとそこにあるのかもしれませんね。

五感をほどいて

目の前の「せせらぎ」を眺めていると、流れる水は何度も岩にぶつかっていることに気づきます。だけど、流れはとどまることなく、障害物をすり抜けるように、また流れ続けます。 私たちも人生の中で、大きな壁に出会うことがあります。高い壁ほど乗り越えるには力が必要で、ときには立ち止まってしまうこともあるでしょう。

そんな時は、無理に越えようとしなくてもいい。 川の流れのように、少しだけ進む向きを変えてみる。遠回りになったとしても、水が岩を避けながら海へ向かうように、私たちもまた、自分らしい流れで未来へ進めばいいのだと思います。

スマホを見れば大抵の情報が手に入る、私たちの時代。 誰とも気軽につながることのできる、私たちの時代。 もし、溢れる情報や誰かの声に少し疲れてしまったら、ほんのひと時でいい。瞼を重ね合わせてみる。静かな余韻に身をゆだね、心がゆっくりと満ちていく時間を感じて。